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歴史

歴史

基督教児童福祉会

 バット博士記念ホ−ムのはじまりは、1956年(昭和31)4月、米国CCFによって設立されたバット博士記念センタ−にさかのぼることができます。1956年4月に施設の前身である「愛隣団育児部」の子どもたちをもっと健全な環境に移したいというバット博士の願いを受けて、世田谷区玉川中町に新しい建物を建築し移転しました。1957年5月30日付で愛隣団育児部は廃止され、(社)基督教児童福祉会は児童福祉法による児童養護施設「バット博士記念ホ−ム」を設置します。

 CCFとはカルビット・クラーク博士によって1938年に創設されたクリスチャン・チルドレンズ・ファンド運動であり、世界の子どもの幸福や戦災で苦しむ子ども達の為に献身的に働く愛の共同体としてその活動が世界に広がり、現在も活動を続けている団体です。

 第二次世界大戦後、わが国の困窮している人々を救済する為バット博士によってララ物資が配分されましたが、加えてミルス博士という方を通して、わが国への米国CCF援助も行われました。(社)基督教児童福祉会は、米国CCFの日本事務所として援助活動(現:チャイルド・ファンド・ジャパン)を行っていましたが、後に児童福祉施設の子どもへの経済的援助だけではなく、施設で働く職員の資質向上こそ日本の課題だとする米国CCFの要請によって、実験的モデル施設と訓練講習会の開催のためにバット博士記念センタ−を開設します。当時の(社)基督教児童福祉会の使命は、実験モデル施設としてのバット博士記念センタ−、またCCF加盟施設職員のための現任訓練部門であるバット博士記念養成所(現:学校法人 和泉短期大学)の二つの施設が車の両輪のようにつながっている事でした。

 後に(社)基督教児童福祉会の経営は、学校法人 和泉短期大学の設立による財産無償譲渡により資産がなくなるという危機に直面し、米国CCFよりの独立分離、CCWA事業開始、町田への全面移転、直営施設である熊本の広安愛児園・沖縄の愛隣園の独立、そして(社)基督教児童福祉会よりChild Fund Japanが独立分離しNPO法人を設立という流れを経て現在も活動を継続しています。

 現在の(社)基督教児童福祉会の事業活動は、児童養護施設であるバット博士記念ホ−ム(本園と都型グル−プホ−ム)、地域小規模児童養護施設Fホ−ムと子どもショ−トスティの家「マルガリ−タ」です。時代のニ−ズに併せて事業は拡大されていますが、私たちはCCF活動の遺産を受け継ぎながら活動を進めていく責務があると考えています。



バット博士の生涯

ジョージ・アーネスト・バット
(1892-1952)


−出生から宣教師を志すまで−


 ジョージ・アーネスト・バット−後のバット博士は1892年11月23日、カナダ オンタリオ州ブラックウォーターにて父ジョン・カーバー・バット、母キャロリーンの長男として生まれました。
両親ともに熱心なクリスチャンであり、両親の元に育ったバットさんはトロント大学ヴィクトリア神学校に入学をし、神学を専攻、将来は社会福祉の分野で働きたいと願っていました。
1914年から第一次世界大戦が勃発し、カナダも参戦しました。バットさんも志願兵として出征をしましたが、その時の気持ちをこのように語っています。
 「わたしの決心は、ドイツに対する憎しみではなく、また、一時的な激情によるものでもありません。長引く戦争は、国籍を問わず大衆に悲惨な生活を味わわせています。戦争のために家を失くした人、愛する家族を失くした人がたくさんいます。私は戦争の現実に触れてみたい。そしてヨーロッパで繰り広げられている救済事業をつぶさに見て、将来に生かしてみたいのです」。
 戦争後、カナダに帰国し復学したバットさんは卒業後の進路として東洋特に日本にキリスト教を伝道する宣教師になることを志すようになりました。


 


―日本宣教―セッツルメント活動―


 1921年5月にトロント大学ヴィクトリア神学校を卒業したバットさんは、エディース・エリナー・クラークと結婚し、8月に日本へ向けて出発をしました。1923年に山梨に赴任、その後1923年9月に起きた関東大震災によってカナダ合同教会の東京東部の事業も被災し、バット博士がその再建の責任を負うことになります。カナダ合同教会は愛隣団、共励館、愛清舘(後に共愛館になる)、根岸会館を中心としてセツルメント運動を行っていました。
 当時のバット博士の実践についてこう述べられています。「(バット博士の)社会福祉実践は、キリスト教と社会福祉の結びついたものであった。恵まれた者が、恵まれない者、不幸で貧しい人々への『恩恵』を施すという慈恵的思想ではなくて、日本人を知り、信じ、愛した人であり、持っている物すべてをこのために献げつくした人であった。(略)キリスト教で言われている奉仕(Diakonia)とは『他のために』である。それがバットの実践となっていたことは疑いない。バットのキリスト教信仰は、言葉を通して伝えるのではなくて、信仰者としての深い喜びと 望みとを、隣人と共に分かち、黙々と日本人のために働いた。むしろ、直接的な『伝道』の場としてではなく、信仰の証の実践として社会福祉にたずさわったのであった」。



                      
―愛の架け橋―ララ物資と社会福祉―

 第二次世界大戦がはじまり、1942年にカナダに帰国したバット博士は日本の為に祈りながら、戦後の日本の復興のための準備をすすめていました。
 1945年8月15日の終戦を迎え、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が占領政策を開始しました。日本政府から連合国総司令部(GHQ)への要請があり、アメリカによる支援の他、カナダのバット博士のもとにも日本への支援要請が伝えられました。アメリカ・カナダのキリスト教会は宗派を超えた「アジア救済教会委員会」を組織し、バット博士はカナダ合同教会の代表となって日本への赴任に奔走しました。そして戦後日本へ足を踏み入れた最初の民間人として1946年4月15日に、バット博士は横浜港に到着したのです。
 バット博士の来日の目的は、@窮状にあえぐ日本国民の救済、A日本のキリスト教会及び関連の社会福祉事業の復興、Bカナダ合同教会と協力関係にあったキリスト教主義学校、社会福祉施設の復興でした。そして1946年6月「海外事業運営篤志団アメリカ協議会が」日本、朝鮮の救済事業を行うために特別委員会を設置し「アジア救援公認団体」(ララ)が誕生しました。ララは、1946年にはじまり、1952年3月に終結するまで当時の日本人の6分の1に当たる1,400万人に恩恵があったといわれています。物資の総額は約400億円にも達し、その内20%が日系人からの献品でした。主な配分先は、一番困窮している乳児院、児童養護施設、結核・ハンセン氏病療養所、養老院などの他に広島・長崎の困窮者に配分されたといわれます。
バット博士はララ物資の配分の為、愛車ハーレー・ダヴィッドソンに乗り、日本中を駆け巡りました。しかし、過労の為1952年3月5日脳溢血で倒れ59歳で天に召されました。今はパインデ−ル合同教会に埋葬されています。